所属する会の同期会で、南紀の姫越山に山行する。
今回の参加者は17名である。
「姫越山」、なんといい山の名前であろう!
最後に山のいわれの伝説を載せておいたが、悲しい物語である。
午後から雨が心配される天候である。
朝7時前に集合し、マイクロバスで東名阪、伊勢、紀勢道を走り、午前9時前に大紀町錦漁港の町営駐車場に着く。
駐車場には大地震の際の津波に備えてか、常夜灯に現在地の標高が書いてある。
体操をした後9:15に出発し、町の中を抜け、津波の避難所にもなっている登山口の階段から登り始める。
階段を登り切ると避難所の広場があり、そこから眼下に錦の町が広がって見える。
南国特有のウバメカシなどの茂る尾根道を登り、10:00展望台と書かれた眺望の開けたところに出る。
道の脇にはまだ散り残りのツツジが咲いている。
尾根を登り、道が前姫越の山腹を巻くようになると、姫伝説ゆかりの爺ヶ塚が足元にひっそりと佇んでいる。
前姫越から来る稜線の道を右から合わせると、しばらくで姫塚が現れる。
爺ヶ塚に比べるとこちらの塚は大きく立派である。
大きな岩の出てきた最後の急坂を登り切り、11:15姫越山山頂に着く。
眼下には弓型の芦浜の浜が広がっている。
他に誰もいない静かな山頂で昼食を摂る。
全員で記念撮影をする。
11:30芦浜に向けて下山にかかる。
途中前姫越山頂を通過する。
前姫越を超えると急な下りになり、積もった落ち葉に滑らないように注意しながら下りて行く。
午後1時前芦浜峠に下り、左に折れて芦浜に向けて15分ほど下る。
下るに連れて潮騒の音がだんだんと大きく聞こえてくる。
堰堤を越えて、誰もいない芦浜に出る。
静かな波の打ち寄せる浜で皆楽しそうである。
帰りに近くの芦浜池に立ち寄る。
芦浜峠まで登り返し、近畿遊歩道となっている水平道を1時間ほど歩く。
午後3時前、避難所の階段を下り錦漁港へ下りる。
そこからバスに乗り、大宮大台IC近くの日帰り温泉で汗を流し、気勢、伊勢道を走り、事故で大渋滞する東名阪道を通り抜け、午後7時半過ぎ名古屋に帰る。
【姫塚伝説】
秋も終わりに近い日の夕暮れのことです。数日前から伊勢路に入り、奥熊野へと向かう途中、錦浦近くの峠にさしかかっていた二人連れがありました。
桃眉(桃の実のようなまゆずみを額に二つ置くこと)をつけ、金襴の内掛けを身にまとった由緒ある姫と肩衣袴姿の老武士とが、足取りも重く峠にさしかかっていました。
峠の頂には大きな石が「どすん」と、座っているではありませんか。ひと休みするには都合のよい石です。少し休もうと爺やが姫の顔を見ると、姫は疲れた顔で爺やに言いました。
「爺や、私はもう一歩も歩けないわ。」
「姫、旅路はまだ長うございますぞ。」
姫は、飢えと渇きのために精根がつきそうになっていました。
「私はもう・・・・・。」
その時、姫は小さな声でつぶやくと、その場に倒れてしまったのです。
「姫、どうなされたのじゃ。」
爺やは驚いてからだを揺すってみましたが、姫はうつろな目で口もとを指さすのみです。
「かわいそうに、のどが渇いたのだな。」
爺やは先ほど通ってきた谷川へと、山道を下っていきました。自分も一口「ごくり」と、のどをうるおし、竹筒にいっぱい水を満たして、むちゅうで姫のところへと山道をかけ登ってきました。竹筒を口もとに近づけましたが、姫は身動きひとつしません。
「姫よ、いったいどうなされたのじゃ。」
爺やがそう叫んだときには、すでに姫は息絶えていたのです。爺やは、わなわな震えながら、その場にうずくまってしまいました。
今、まさに沈もうとしていた秋の夕日が、姫の金襴の内掛けに、きらきらと照り映えて、いっそう悲しみを添えていました。
やがて、我を取りもどした爺やは、姫の亡骸を丁重に葬り、自分も切腹して姫のあとをおいました。
現在でも、錦から新桑に越える峠道があり、石が積まれた塚が残っています。人々はそれを「姫塚」と呼び、少し錦側に下ったところの塚を「爺塚」と云い伝えています。
この出来事があってから、人々はこの峠のある山を「姫越山(ひめごやま)」と呼ぶようになったということです。
低気圧が近づき雨が心配された天候であったが、歩いている間は何とか降られずに済んだ。
姫越山の悲しい「姫伝説」と、熊野灘に面した美しい芦浜の浜という山と海の両方を楽しめた山行であった。
山遊人