平成28年度

    第25回歴史・文化探訪の会(ご報告)



 去る1030()に実施した第25回探訪会「南知多町内海と野間」について報告します。
定刻の1010分、少し寒さを感ずる朝、名鉄内海駅前に16名が集合し探訪会を開始した。

  出欠確認・資料配付後、海っ子バスに乗り内田左七家前で下車、ガイドと合流し内田左七家・左平二家
へ向かう。


 内田左七家は内海を代表する廻船主の家で、主に米を積荷とし瀬戸内海東半から江戸まで東西を往復し
「買積」という商いを得意とした。

 内田家の屋敷は主屋・座敷・いんきょなどから成り、棟札や古図から明治2年(1869)の竣工とされる。
平成
18年(2006)南知多町に寄贈され、土・日・祝日に一般公開されている。

 入口から順に内部を見学した。主屋の「だいどこ」(家族の居間)、「おでい」(主人の居間、接客用で
仏間、神屋の前にある)、座敷の「次の間・上の間」(戎講の寄り合い、冠婚葬祭など特別な時に使用)、
「南庭」、「茶の間」、主屋の「なんど」(家族の寝所)、主屋の「にわ」(土間、竈・井戸があり、炊事
・仕事場用)、いんきょ(老夫婦用、
1階は明治7年「東端郵便取扱所」も開設、2階に床の間付き座敷あり)
と見学し、記念撮影後西隣の左平二家に移動した。


  佐平二家の初代佐造は左七家の廻船に乗り込み、やがて船頭となり10年余りを無事故で乗り切り、その後
は矢野(現津市内)に店を構え干鰯販売や酒造りで内田家の廻船経営を支えた。佐造は初代左七の娘こうの
夫として迎えられた。明治
5年に店を閉め内海に帰郷、左七家が西隣に新家を建築し佐造の屋敷地とした。
三代目左七の次男が佐平二で佐造の養子となり、この新家の二代目となった。


 佐平二家の内部は左七家とよく似ていて、「だいどころ」、「ざしき」、「にわ」、「なんど」、「かっ
て」等から成り、千石船雛形、板図、船札、宝久丸(弁財船)模型、船磁石、戎講文書、船額、霧中号角など
が展示されていた。


 佐平二家を後に、慈光寺へ向かう。長い石段を登り詰め、歯痛が治まるという「あごなし地蔵」(佐造が
隠岐の島から持ち帰った)などを見学した。その後内海川に沿って北上し、黄金伝説のある前野小平治宅前
を通り、
12時頃昼食会場の三晴楼に到着した。

 三晴楼で50分ほど昼食休憩をとり、次の見学地梅原邸に向かった。

 梅原猛氏は仙台市の生まれだが幼少時に母と死別し、醸造業を営む伯父夫婦の養子となり、青少年期を海
と山に囲まれて過ごした。内海小、東海中、旧制八高、京大の学業を終えた。「決して素行善良ではなく養
父母にさんざん心配をかけた」と本人が述懐している。氏は哲学から仏教の研究に入りその間に「隠された
十字架」(毎日出版文化賞)などを発表。その後アイヌを研究し「梅原日本学」を確立、
1987年国際日本文
化研究センタ
-初代所長を務め、1999年には文化勲章を受章している。幼少時の将棋の駒、剣道の面・小手、
机などを見学した。


 梅原邸を後に、電車で一駅移動し野間駅で下車、徒歩で晩秋の田園風景を見ながら、野間大坊に向かった。
血の池、大御堂寺本堂前を通り野間大坊客殿に到着、ご住職から「源義朝公最期の絵解」を拝聴、参加者の平
穏無事を祈って般若心経を奉経して貰った。その後源義朝公の御廟にお参りし、野間駅に向かった。
15時頃駅
に到着し解散、各自家路に就いた。


                      「歴史・文化探訪の会」幹事 清水國光さんからお寄せいただきました。

                                                       20161212