山本勘蔵信供ゆかりの地

 新城市一帯は設楽原といわれ、設楽原や長篠の戦いに関する史跡が数多く残っています。その一つとして、山本勘蔵信供に関する史跡があります。勘蔵信供は武田24将の一人で、武田の軍師といわれた山本勘助晴幸の子として弘治2(1556)年、山梨県高根で生まれ、天正3(1575)年5月、設楽原の戦いに20才の若さで討ち死にしました。
 信供らは、はじめ高坂昌澄らとともに、長篠城監視隊として、寒挟川沿いに備えていたが、武田勝頼本陣から全軍設楽原に終結し、決戦することを指示され竹広の山形高地に転戦しました。しかしこの時すでに遅く味方の軍勢は総くずれとなり、信供は単騎で徳川本陣めざし斬り込み、渡辺半蔵守綱との戦いに敗れた。戦後、守綱は家康に話し、勝楽寺前に石を建て弔ったといいいます。後に一石五輪塔がまつられました。(墓前の説明看板より)

 戦死の地  場所の地図
 昨日紹介した新城総合公園入口ののすぐ南東500mのところにひっそりと石標が建っています。知らなければ見逃します。石標が前後2つあり、後ろの石標は、昭和57(1962)年七月に「十三代 山本勘助当主建之」とあります。

手前の石標 後ろの石標

   場所の地図
 【第1348号】で紹介した勝楽寺から南へ約250mのところにあります。こちらは、案内看板があり目立ちます。

≪平成26(2014)年12月26日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【平成26年12月28日(金):第1351号】