新城・東郷中学校周囲の史跡

 新城市立東郷中学校が立地するあたりは設楽原の戦いが行われた場所です。そのため、設楽原の戦いに関する史跡等が数多く残っています。東郷中の正門からぐるりと時計回りに史跡をたどってみました。

 平成の馬防柵  場所の地図
 東郷中学校の正門前に、次の説明文があり、馬防柵が南北に伸びています。

 天正3(1575)年5月、戦国の歴史に名をとどめる「設楽原の馬防柵」はどんな形で存在したのだろうか。甲州の武田軍と東海の織田・徳川連合軍の決戦は、騎馬と鉄炮の戦いといわれる。そこで、馬防柵がどんな役割を果たしたのだろうか。
 柵が立てられた二つの川の間の学校。私たちの東郷中学校は、歴史の舞台のまっ只中にあることは間違いない。私たちの今は、この連綿と続く時代の歩みの中の一こまである。 新城市立東郷中学校

 徳川家康本陣跡  場所の地図
 東郷中学校の北西側すぐのところに、八剱神社があり、そこが家康の本陣跡地です。神社前に次の説明看板があります。

 天正3(1575)年5月、武田軍に包囲された長篠城を救援するために家康は織田信長とともに設楽原に出陣した。家康は、この八剱山に本陣をおき、これより東約300m(東郷中学校の向こう側)を南北に流れる連吾川をはさんで、武田軍を迎え撃った。この地は、まさに最前線である。ここに家康が本陣を構え、多大な犠牲を払って戦ったのは、信長に援軍を頼んだいきさつがあったからだと思われる。この東北400mの地点に「家康物見塚」と呼ばれる所がある。そこは、家康が陣頭指揮をしたところである。

八剱山全景 家康本陣跡の石標 設楽原古戦場いろはかるた

 歴史の見える丘  場所の地図
 東郷中学校の真南に、「歴史の見える丘」として次の説明文と「設楽原決戦場図」と馬防柵があります。

 北に雁峰の山なみをめぐらし、東北には三河の名山鳳来寺山を望むこの地は、設楽原を南に伸びる弾正山の丘陵で、今は豊かな緑に囲まれた静かな工業団地ですが歴史のドラマの見える丘であります。
 丘の一帯には、南貝津遺跡(弥生時代住居跡)や断上山古墳群(県指定史跡)があり、豊川中流域の古い文化の拠点のあった所で、この左手にも古墳があります。
 この地は、天正3(1575)年の長篠の戦いの設楽原決戦場です。5月8日より1万5千の兵で長篠城(南東4km)を囲んでいた武田勝頼の軍勢は、18日、援軍として到着した織田・徳川連合軍3万8千とここ設楽原に雌雄を決すべく布陣しました。
 連合軍はこの丘一帯(東寺この辺りは全て草刈り場で見通しがよかった)に旗を押し立て、丘の東側裾の連吾川に沿って延々と馬防柵を構築しました。梅雨晴れの21日朝、無敵を誇る武田騎馬軍団は東側の丘を駆け下りて連吾川に押し寄せますが、連合軍の新戦術、柵内から放つ3千挺の鉄砲に阻(はば)まれて大敗していまいます。
 武田の将士は上洛の雄図(ゆうと)空しくこの地に眠り、織田は天下に勢いを増し、先方や築城法はこの決戦を機に一変するという、日本歴史に一つの区切りをつけた戦いでした。また3千もの鉄砲が使われた戦いは、世界史上においても最初のことでした。
 秀吉が駆け抜け、家康が采配を振り、信長が勝ちどきを挙げ、勝頼が無念の涙を呑んだここ設楽原は、まさに戦国の声が聞こえ日本の歴史の見える所です。
    平成3(1991)年1月  新城市教育委員会(新東工業株式会社寄贈)

 長篠役設楽原決戦場  場所の地図
 東郷中学校の南西側すぐのところに、「長篠役設楽原決戦場」の石碑があります。昭和41(1966)年5月に、新城市郷土研究会によって建てられたものです。

長篠役設楽原決戦場の石碑 設楽原古戦場いろはかるた

 家康物見塚  場所の地図
 「長篠役設楽原決戦場」の石碑のすぐ上部に、家康の本陣跡地の解説にあった「家康物見塚跡」の石碑があります。 

 断上山古墳  場所の地図
 「家康物見塚跡」の石碑のさらに上部に「断上山古墳」の石碑があります。この丘陵地一帯に10基の古墳があり、県や市の指定文化財になっています。

≪平成26(2014)年12月26日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【平成27年1月9日(金):第1363号】