鈴木金七生誕の地  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。長篠城から援軍の依頼をしに岡崎城へ向かい、援軍が来ることを伝えて磔死した鳥居強右衛門【第87号参照】の話は有名です。実は、援軍の依頼に向かったのは、鳥居強右衛門一人という説と、鈴木金七(きんひち)の二人で向かった説があります。また、金七は第二の使者であったという説もあります。
 鈴木金七について、古戦場いろはかるたの下に次のように説明されています。

 鈴木金七(金七郎重政)
 新城市富永旧川上村の鈴木一族の出自。天正3(1575)年5月18日(陽暦7月)長篠城から敵の重囲を破り、城将奥平貞昌の「城兵は意気軒昂たり、決戦を急ぎ給うな。」の言を徳川家康本陣に伝え、これが連合軍の勝機につながったという。
 後、父祖の地作手亀山城主となった松平忠明は、作手村田代に帰農していた金七をたずね、二百石の禄を与えて往年の労をねぎらった。

遠景 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年3月15日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【平成27年4月5日(日):第1449号】