山縣昌景の墓  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。【平成23年6月14日(火):第58号】で紹介した「設楽原歴史資料館」から南へ300mほどのところにあります。

 武田四将の一人である山縣三郎兵衛尉(ひょうえのじょう)昌景は、武田軍の左翼に陣を敷いていました。昌景は、織田・徳川連合軍とのここでの決戦を避けるべく、最後まで勝頼に進言しましたが、主君勝頼の決断が総攻撃と決まると、宿将たちと共に連合軍の銃火に立ち向かいました。馬防柵前で銃弾を浴びて倒れた彼を、従者が抱きかかえて後方に退き、手当てを尽くしましたが昌景は息絶えました。やむを得ず、遺体に後の供養を依頼する書状を置き、短刀「小烏丸」を添えると、首級をかかえ立ち去りました。(短刀は、太平洋戦争で供出されました。)戦い終わって戻ってきた村人は、遺体を懇ろに葬り、塚に印の松を植え、以後、「胴切りの松」と呼んで、供養していましたが、現在の塚には檜の巨木がそびえています。昌景の墓と並んで、従者3人の墓も並んでいます。このことが縁で、この付近の地名は「山縣(山形)」になったということです。(JA愛知東 郷土の小道より:一部変更)

山縣昌景(左端)とその従者の墓 山縣昌景の墓アップ 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年4月23日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【平成27年5月2日(土):第1476号】