高坂源五郎昌澄の墓  場所の地図

 新城市内にある長篠の戦いや設楽原の戦いにまつわる多くの史跡の一つです。【平成26年12月25日(木):第1348号】で紹介した「勝楽寺」から東へ1kmほどのところにあります。

 墓の前に次の説明文があります。

 高坂(こうさか)源五郎昌澄(まさずみ)は、武田の四天王といわれた高坂弾正忠昌宣(こうさか だんじょうのじょう まさのぶ)の子として、山梨県甲府に生まれ、設楽原の戦いには、25才の若さで、兵二千を率いる大将として戦いました。
 昌澄は、始め長篠城を取り囲む城監視隊長として戦っていましたが、勝頼本陣から設楽原前線の信玄南坂に転戦を命ぜられ、悪戦苦闘の末、今はこれまでと単身連吾川を越え、徳川本陣をめがけて斬り込みましたが、徳川の将、稲生次郎左エ門との戦いでここで敗れました。稲生は家康の指示もあって、ここに埋葬し里人にも語り弔ったといいます。
   平成12(2000)年4月1日  設楽原をまもる会

 ここには、「設楽原古戦場いろはかるた」の句標には、2句あります。「ゆ」の句は、昌澄のことを詠んでいますが、「る」の句は、昌澄の父である高坂昌宣のことを読んでいます。父である高坂昌宣は、設楽原の戦いには留守役として川中島の海津城にいて出陣していません。武田軍の敗北を知った昌宣は、傷ついた武田軍の姿を整え、甲府に帰陣させたといわれています。故里へ帰ることなくこの地に倒れた息子への、せめてもの報告のためにここに「る」の句が設楽原をまもる会の手によってたてられました。(JA愛知東 郷土の小道より:一部変更)

高坂昌澄の墓全景 高坂昌澄の墓アップ 設楽原古戦場いろはかるた
≪平成27(2015)年4月26日撮影≫

釣月寺和尚の一日一題 話題提供 【平成27年5月8日(金):第1482号】