参考までに「蝦夷」の起源は古モンゴロイドである。その一部が北に向かい、ベーリング海峡を通り、アラスカへ渡りイヌイットになり、さらに南下しアメリカインディアンになった。又、一部は南下し、カラフトヘ、そして北海道へと日本の北端へ渡来し「蝦夷」となった。
 ちなみに島づたいにやってきて九州へ上陸し大和に至った大和民族は、新モンゴロイドである。日本書紀の記載によると、斉明天皇(七世紀後半)より遡ること一世紀、陸奥の国で黄金が取れた。そのことを賀いだ歌が万葉集にある。
 天皇の御代栄えむと東なるみちのく山に金花咲く。
 大伴家持の歌である。
 斉明天皇の御代、百済が唐、新羅の連合軍に圧迫され、大和に救援を求めてきた。斉明天皇は救援軍を送ろうと決心し、その軍資金として蝦夷の地の黄金を求めた。そのために越の国の国司の阿倍比羅夫に蝦夷の地の平定を命じた。日本書紀の記述によると百八十艘の軍船が北征するが平定できず、二次、三次の派兵をするが、石器時代にあった蝦夷のゲリラ戦に翻弄され征服はできなかった。
 そこで大和王権が考えたのが「和人同化策」であった。蝦夷を懐柔し、大和の地に連れてきて、和人と結婚させ血を混ぜることである。中部地方にも大勢の蝦夷が連れてこられた。その地名が今も残る。その代表例が「岐阜」と「常滑」である。
 斉明天皇は百済救援のため大和軍を派遣するが、唐、新羅の連合軍に白村江(はくすきのえ)で惨敗する。(六六三年)
 この論文は、以上の内容を詳細に記したものである。