東海道(その6) 岡崎宿 平成22年12月06日(月) 大橋 光雄 さん |
岡崎宿 東海道五十三次の38番目の宿場町。「岡崎宿」は、本陣や脇本陣、旅籠の数から東海道五十三次の中でも屈指の規模を誇る宿場町でした。曲がり角の多い町並みは、「二十七曲り」と呼ばれ、欠町から伝馬通、材木町から、八帖町、矢作橋へとつながる旧街道筋には、現在でも二十七曲りを示す碑が残されているほか、当時の面影を残す家屋や洋風建築の資料館など、現在に至るまでの岡崎の歴史を垣間見ることが出来る。 | ||
今回のコース 美合〜岡崎宿入り口 |
前回の続き 美合駅、10:20歩き始める |
美合新町の交差点から、旧東海道に入ったところ。 |
国指定天然記念物 岡崎源氏蛍発生地の説明板 昭和10年12月24日指定 昭和47年8月25日追加指定 |
岡崎源氏蛍発生地碑と説明板 |
すぐ横に芭蕉句碑 「草の葉を 落ちるより飛ぶ 蛍かな」 |
大平の常夜灯 大平町東で1号線を渡り少し進んだところ |
さらに少し進んだ三叉路 右側・・今進んできた旧東海道 左側・・つくてみち 民家の前(道路標識の後ろ)に道標 |
道標 右面に「東海道」 左面に「つくて道」 と刻まれている |
大岡越前守陣屋跡(西大平藩陣屋跡) 「大岡裁き」で名高い大岡越前の守が、1万石の大名となってから明治まで、 西大平藩主大岡家の陣屋が置かれたところです。 陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主をしたう旧藩士や領民から、陣屋跡を保存すると同時に、旧藩主に東京から移住を願う声があがり、 大岡家別邸として復活しました。 西大平藩陣屋は大岡越前守が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石 の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、 三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。 しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で、宝暦元年(1751)には亡くなっています。2代目は忠宣が継ぎ、廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。大岡家は、江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。 | ||
国指定史跡 大平一里塚 東海道岡崎と藤川両宿の間にあって、これは南側の塚である。 塚の規模は、高さ2.4メートル、底部の縦7.3メートル、横8.5メートルの菱形である。 塚の中央の榎は巨木となっていたが昭和二十八年の台風で倒れ、現在は若榎が植えられている。 | ||
大平一里塚 ここは「跡」ではなく当時の一里塚が左側だけ残っている。二代目の榎も見事に生長している。 右側の塚があった場所には「秋葉常夜灯」と「馬頭観音」を祀った堂がある。 旧東海道はまっすぐ進む | ||
岡崎宿 |
欠町・冠木門と二十七曲がりの碑 |
若宮町の角にある道標 |
若宮町の角にある道標 |
若宮町の角にある道標 |
若宮町の角にある道標 右手は岡崎げんき館 |
両町にある常夜灯 昭和20年空襲で被災し、 更に傷みがひどくなり危険なため昭和47年取り壊し、その一部「宝珠」を残し保存。岡崎では最も古い由緒ある常夜灯である。 |
両町から伝馬通へ左折 | |
伝馬交差点・備前屋の前道標 江戸時代街道を旅する人々が頼りにしていたのが「道標」です。 主要な道の分岐点には真ならず道標が建っておりました。東西南北を太陽に頼るしかない当時の旅人にとって自分の行き先を示してくれる道標は どんなにありがたい存在であったか想像できます。 この「道標」は伝馬の脇本陣であった杉山家の所蔵の物を複製しました。素材も当時のままの岡崎産の良質な「花崗岩」を使用しております。 建っていた場所はここより北と推測され、東海道より足助街道へ行く道を示しております。 | ||
備前屋の壁面 伝馬町家順間口書 |
備前屋の壁面 |
備前屋の壁面 「駒索朱印」 徳川幕府の公印 |
伝馬通1の道標 |
西本陣跡 |
伝馬通1の道標 きらみち |
伝馬通1の道標 西京いせ道 |
伝馬通1の道標 東京みち |
伝馬通1の道標 説明板 |
岡崎信用金庫資料館 大正6年に岡崎銀行本店として建てられた赤レンガと花崗岩の建物である。 その後、商工会議所として使われたが、現在は資料館として一般に開放されている。 | ||
龍田惣門跡碑 道路の真ん中にある緑地帯の中 |
田中吉政像 |
田中吉政の紹介 |
連雀通り道標 公園を通り抜けたところ ここを左折 |
本町1の次の交差点の道標 ここを右折 |
材木町の道標 ここを左折 |
材木通りの常夜灯 |
唐弓弦の看板 かつて岡崎は、三河木綿の特産地として知られ、 このあたりには三河木綿に関連する職人や商店が多く存在したそうです。 「唐弓弦」とは、江戸時代使用されていた、綿を打つ道具のことで、これを取り扱っていた看板が当家に現存しており、当時の面影を伝えています。 | |
「伊賀川」に掛かる「柿田橋」手前 唐弓弦の看板のある家の向側 |
「柿田橋」を渡らず堤防を左折し次の「三清橋」まで進む |
「伊賀川」の堤防 |
「三清橋」の畔 ここを右折して橋を渡る |
板屋町入り口の道標 「三清橋」を渡り、左折しR1を八帖の歩道橋で渡ったところ 後ろに見える車はR1(名古屋方面に向かっている) | |
板屋町界隈の家並み 昔遊郭のあった町ですが、当時の雰囲気は古い家屋が伝えている程度 | ||
板屋稲荷 ここを過ぎたら右折 |
松葉惣門跡 R248を渡り松葉通りに出たところ |
八帖町 愛知環状鉄道をくぐると八丁蔵通り |
名鉄、岡崎公園駅前 |
名鉄、岡崎公園駅前 |
名鉄、岡崎公園駅 |
本日はここで終了。(14:40) 名鉄 岡崎公園駅から東岡崎まで戻り、14:57の特急に乗る。 歩数計:22,000 |
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