東海道(その4) 大橋 光雄 さん 御油宿から赤坂宿 平成22年11月17日(水) 名鉄国府駅をスタートし、御油宿から引き続き赤坂宿まで |
赤坂宿 御油から1.7kmと東海道五十三次宿駅の最短距離、そのためか朱印状に御油と併記され両宿で一宿扱いをされた。赤坂は幕府の直轄地でありながら吉田・御油と並んで遊女の多い歓楽街として栄えた宿場である。 「御油や赤坂吉田がなくばなんのよしみで江戸通い」 「御油や赤坂吉田がなけりゃ親に勘当うけやせぬ」 江戸時代の俗謡が当時の様子を物語っている。 |
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今回のコース |
見附跡 見附(みつけ)とは、宿場の入口に石垣などを積み、出入りする者を見張ったところである。 赤坂宿見附は、東西に設けられ、東は東海道を挟んだこの辺りの両側にあり、西は八幡社入口附近の片側にあった。 |
関川神社 |
「夏の月 御油より出でて 赤坂や」 芭蕉翁 |
由来及び沿革については不明であるが古老の説によると木の根元からえぐれている部分は慶長十四年(1609年) の十王堂近所(宮路山登山口の東側)からの出火による火災で約三十戸が焼失しておりその時に火の粉が飛び焼けたものであるといわれている。 この木は楠としては町内一の巨木で、幹のまわりは目の高さで約7.29メートル、高さ25.7メートルあり、推定樹齢が約800年であるといわれています。 |
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本陣跡 松平彦十郎家の本陣跡。畳数422畳あったという。 |
赤坂宿問屋場(伝馬所)跡 |
「尾崎屋」 民芸品店 |
「尾崎屋」 軒行灯が街道の面影を残す。 |
浄泉寺 |
浄泉寺本堂 |
「東海道五十三次赤坂宿」の旅籠屋の中庭に植えられていたという「大蘇鉄」が移植されている |
浄泉寺の蘇鉄と「東海道五十三次赤坂宿」 |
旅籠「大橋屋」 正徳6年(1716)の建物 今も旅館を営業している |
旅籠「大橋屋」 |
旅籠「大橋屋」 |
旅籠「大橋屋」の壁面にある浮世絵 |
旅籠「大橋屋」の壁面にある浮世絵 |
赤坂陣屋入り口跡 |
休憩所「よらまいかん」 |
休憩所「よらまいかん」 |
休憩所「よらまいかん」 |
赤坂陣屋跡(三河県役所跡) 陣屋(じんや)とは代官所ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところであった。 赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、当初この奥の大薮地内に設けられたが、元禄二年(1689)神木屋敷(現赤坂保育園附近)に移された。 幕末に三河県役所と改められた。手狭になったため明治二年(1869)再び大薮地内へ新築移転された。 廃藩置県後、明治五年に廃止となった。 |
高札場跡 |
見附跡 |
杉森八幡宮 |
杉森八幡宮の鳥居脇に赤坂の舞台の標柱 |
杉森八幡宮の楠(夫婦楠) |
杉森八幡宮の楠 杉森八幡社境内・拝殿向って左側、前から二本がそれであり、 根株が一本化し、二本に成長していることから「夫婦楠」とも呼ばれている。 |
杉森八幡宮の楠(夫婦楠) |
赤坂の舞台 平成10年6月1日 豊川市(旧音羽町)指定有形民俗文化財。 建築面積 243u (間口10.4間 奥行7間)。 当舞台は、心棒の先を支点として盆が回るように仕組んだ皿回し式の回り舞台である。奈落はなく、舞台上で回した。 赤坂宿では、江戸時代には人間浄瑠璃、明治以降は歌舞伎が演じられていた。 平成12年に改修復元した。 |
赤坂の舞台 回り舞台 |
赤坂の舞台 年1回歌舞伎の公演が行われる。近々公演があるのだろうか? 観覧席の準備が・・・・ |
本日はここで終了。(14:15) 名鉄 名電赤坂駅から帰宅する。 名鉄 名電赤坂駅、14:29発の普通、岡崎で特急に乗り換え家路に・・・ 歩数計:17,000(国府駅〜名電赤坂駅+家から名鉄の駅往復) |