【諭吉】を訪ねる(2)

  =少年時代を過ごした中津(大分県)=
 

                       2010.11.14(日)


                                   水野 昭彦 さん

 福澤諭吉は、天保5年(1835年)に、大坂(当時は大阪ではな

かった)の中津藩の下級武士、百助の次男として生まれた。

1才と6ヶ月のとき父と死別し、母子6人とともに中津に帰郷。

21才で長崎に蘭学を学ぶために故郷を出るまでの間、少年

時代を中津で過ごした。下級武士の子であったがために、家老

や上級武士の子供達にいじめられたみじめさ、悔しさがその後

の彼の人生に大きく影響している。

 
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり』

 『門閥制度は親の敵でござる』
と言わしめたのも、

そこに起因していると思う。

 福澤諭吉訳「帳合之法」現代語訳を発刊して1年。懸案で

あった諭吉の故郷を訪ねる機会を得た。秋の穏やかな日

であった。


 豊橋 08:00==(ひかり501)==09:30 新大阪 09:59==(ひかり553)==12:22 小倉
 〜駅で昼食(サンドウィッチ)〜
 小倉 12:53==(のんびり普通電車)==14:06 中津

 【JR中津駅前に立つ、福澤諭吉像】〜「良く来たな」と出迎えてくれた〜
    
                     【駅校内には、額もある】

 *福澤諭吉旧居・福澤記念館*



念願だった諭吉の故郷、中津を訪ねた。
さすがに歴史のある町、
お寺が多い。
そう言えば、
諭吉の母親は、次男の諭吉を
お寺のお坊さんに
したかったという。
***
寺町筋を通って
旧居、記念館へ。

ゆっくり見学した後、
拙著「帳合之法」現代語訳を
献本した。

 *中津城*

長篠の合戦、鳥居強右衛門の磔刑掛け軸?? 何でここに?


諭吉の片腕、小幡篤次郎は、
故郷の中津に「英学校」を創った。
その立派な門は、
後の「南部小学校」の門として使われていた。

中津藩は細川家、
小笠原家に続いて
奥平家が治めた。
そう言えば、
諭吉が長崎で
蘭学を学んでいたとき、
奥平壱岐に
嫌がらせを受け、
結果、
長崎を後にした。
その後、
諭吉は
大坂に出て、
緒方洪庵の「適塾」で
学んだ。
***
奥平信昌は作手の城主。
徳川家康について
武田信玄と戦う。
長篠の戦いの手柄により
中津城主となる。
10万石。
明治まで120年以上
中津を治める。
中津藩古地図:中央が城、お堀の外(南)が「上士」、東に寺町、
その北側に「下士」の住居がある。諭吉の旧居もそこにある。

【小幡記念図書館では毎年『福澤諭吉』をテーマとした
 作文コンクールや絵の大会が開かれる】


 その他、中津には《歴史民族資料館》や《村上医家資料館》など訪ねてみたいところが沢山あ。

                        ******

 【駅には名物生きたハモの水槽】 【料理屋でハモの刺身とハモシュウマイを食す〜絶品! (^_^)/~ 


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