紀伊民報 3月10日(土)16時56分配信

               
  明治、昭和の大津波を受け、岩手県宮古市田老地区は「万里の長城」と呼ばれる長大な防潮堤を築いた。しかし、東日本大震災で地区は壊滅的な被害を受けた。防災対策は機能したのか。9日、「長城」と対面した。(喜田義人、中陽一)


 田老地区の防潮堤の上に立ち、辺りを見下ろした。堤防に損傷がないのに、建物はほとんど残っていない。津波は海面から10メートルの高さを誇る防潮堤を越え、地区を襲った。1年経過した今も、その爪痕がくっきり残っていた。

 防潮堤は総延長2433メートル。上から見るとX字状をしている。中心点から北と西に延びるのが陸側の防潮堤、中心点から東と南に延びるのが海側の防潮堤。東方向の防潮堤は津波で崩壊。内側の集落は壊滅的な被害を受けた。

 震災まで田老地区に住んでいた大沢武男さん(68)が、串本町に親類がいる縁で地区内を案内してくれた。

 大沢さんは震災当日、妻の恵美子さん(63)と、母(89)のリハビリで海岸から車で30分ほどの距離にある病院におり、津波に遭遇しなかった。家に残っていた娘(40)と孫(7)も無事避難していて、5日後に再会を果たした。しかし、自宅は津波で流失。いまは車で30分ほど離れた市内で借家暮らしをしている。

 大沢さんの自宅跡は基礎だけが残っていた。周囲で形を残す建物は、鉄筋コンクリート造りの「たろう観光ホテル」ぐらい。3階まで津波に襲われた跡が残るこの建物は、震災を伝える「証人」として保存されるという。

 大沢さんは「防潮堤が津波の勢いを殺してくれたから全滅は免れたのだと思う。でも、地区に住む人は減る。過疎は進む一方だ」とつぶやいた。自身は地区内の高台に土地を見つけた。今年中に引っ越したいという。

 田老地区を歩いていると、あちらこちらで津波への注意を喚起する看板が目に付いた。かつて旧田老町役場に勤務していた大沢さんによると、防災教育は園児から始め、1933年の大津波があった3月3日に、毎年住民の避難訓練があった。

 ただ、昭和の津波から78年。語り継いできた記憶も風化してきていた。訓練の参加者も少なくなっていたという。市役所を訪ねると、防災担当が、11日に行う新しい避難訓練の準備に追われていた。

 住民の訓練は恒例だが、今年は職員の参集訓練を加える。震災当時は津波で1階が浸水。周りは海で外に出ることができなかった。停電も回復せず、司令塔は孤立した。

 市危機管理課の山崎正幸さん(46)は「『あの日』を思い出させる訓練に批判もあった。けれど、次同じ津波が来たら果たして対応できるか。『3・11』を教訓に、防災体制を検証しなければならない」と話した。

                        最終更新:3月10日(土)16時56分
 

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