壱岐対馬へ行ってきました。


                    荒川 眞仁(H6)さん


 私の一日は、起床後すぐパソコンを開け、このHPの例の欄を確認、

次いで、小島俊夫先生から引き継いでしばらくお手伝いをしていた

Createの会」のページを開けたあと、メールの確認をすることから

始まる。現在使用中のパソコンの機器は、ここ30年間のパソコン歴で

6台目。ワープロも3台使ったが、最初は、大須で中古品を買った。

プリンターが中古のモノでも10何万円する時代、思えば今は手軽に入

手できるようになったものだ。しかも、8ビットから、16ビットに変

わったころだが、変換は遅く作業は遅々たるものだった。

 従前は、PC一式をしかるべき部屋に置き、そこへ使用するごとに

赴き、作業をしていたが、すべての勤めを終え、多くの時間をテレビ

の前で過ごす生活になってからは、90四方のテーブルに筆記用具をは

じめ事務用品一式と卓上PCを載せ、ソファーの傍らに置き、一日中画

面を開いているのが常態となっている。

 このように日毎の生活が「旧会員の会 HP」から始まる。会員諸兄姉

の動きが伝わってきて、毎日の生活が世間とつながっているような気分

になっている。このたび、「HP開設十周年に寄せて」の特集を企画され

たのを知り、先週行ってきた「壱岐対馬への旅」の記録を寄せようと思

っていたが、気候不順で国境線からのぞんだ異国の写真など当地ならで

はの眺望豊かな写真が全く撮れなかったので、意気消沈、こんな文章で

ごまかすことにした。

 実は、あちこち旅をしてきて、国外はおおむね狙うところは訪れ終

え、体力も限界に近づいたので旅券の更新をせず、国内に目を向け物色

したが、これまた食指を動かすようなところはないので、「壱岐へでも

行こうか?」ということになった。旅行社のツアーに応募したが、船の

利用があるためか、旅費はソウル行きの2倍以上、しかもしっかりした

宿泊施設はなくビジネスホテルの狭い部屋に押し込まれ、大型バスが横

付けできないところが多く、徒歩での移動が多かった。

 

 壱岐が魏志倭人伝の一支国で、大和朝廷発足前の中国の史書に見られ

る地域であるということと、対馬が朝鮮通信使の経由地で宗家が、重要

な役割を果たしていたということは知っていた。現実は日本の原初時代

の一地方だけのものではなく、大和朝廷の原型がここにあったのだ、と

いう話を聞いてきた。現在の人口は3万人弱、それでいて食の自給を始

め生活の基本的なものはすべて揃っている。現在の日本本土にある主だ

った神社の本宮がほとんど壱岐市に存在しているという。吉野ヶ里や登

呂に比肩できる弥生時代の集落の遺構がこの島にあり、その研究も進ん

でいる。上の写真は壱岐市立一支国博物館の玄関付近を写したものであ

る。故黒川記章氏が設計したこの博物館は昨年3月に開館したもので、

今までに私が見たこの種の博物館では最も見やすいものであった。展示

方法に工夫がこらされ、展示物も充実している。長崎県埋蔵文化財セン

ターと一体化された施設ではあるが、小さな自治体が世界に向けて紹介

しようとしている意気込みが感じられた。

 

 上の写真は九州からの玄関口郷ノ浦にある「猿岩」である。見る方角

によりサルそっくりの岩が、観光の目玉になっている。島は車で南北

40
分、東西30分で行きつくことのできるこじんまりとしたもので、田に

恵まれ、単独の島では沖縄の宮古島についで、コメの収穫高が多いとこ

ろ。高い山もなく、海の幸山の幸に恵まれた温和な環境に恵まれている。

 これに引き換え対馬市は、面積は壱岐の5分の1、人口は5,000人多い

33,400人。人口密度は壱岐の4分の1と希薄だ。そして山がちの地形で、

集落は海岸線に偏っている。どの時代も、元寇を含め現在まで国防の最

前線である。古代の神武皇后の武勲、白村江の敗戦、元寇の折の宗氏の

悲劇、日露戦以後の要塞建設、3自衛隊の配備と「さきもり」の話題は

尽きない。

 気候は本土と変わらず温暖だが、これから12月になると風が強く、吹

き飛ばされないよう建物の構造にも工夫が凝らされている。玄界灘の荒

海は有名だ。九州からの航路も今でこそ、高速船で対馬まで2時間ほど、

普通のフェリーではその2倍ぐらいかかる。フェリー出現以前は博多か

ら対馬の厳原まで10時間かかったという。福岡、佐賀へは船便があるが、

県庁所在地の長崎へは空路しかなく、県の職員など単身赴任者にとって

は、決して近いところではない。地理的に近い佐賀県ではなく、行政的

には長崎県の離島である所にも歴史の因縁があるのである。

 旅はするもの、知ったかぶっていても、知らないことばかり。訪れた

ばかりの神社でも、あまり沢山あったので、どこが住吉で、どこが八幡

だったか区別がつかなくなってしまった。とにかく神社庁登録の神社は

九州全体の半分近くが、この壱岐にあるというから驚きである。

 これからも、このHPの諸兄姉の紀行文を参考にしてどんどん出かける

ことにしよう。もっとも、老害をばらまかないよう留意するつもりでは

あるがー。このHPがこれからも、ますます生き生きしたものであること

を期待する。担当の皆様のご努力に敬意を表するものである